コラムCOLUMN

出場選手紹介 第2弾 「新城 幸也」

15/09/11

チーム ユーロップカーの新城幸也はおそらくフランスで最も知名度のある日本人だと思う。フランスのこの人気チームに所属する選手らがツール・ド・フランスに出場すればサインを求めるファンが黒山の人だかりとなるが、その中でも「ユキヤ」への声援はひときわ大きい。

沖縄県の石垣島出身。特技は習字。体が丈夫で小学校、中学校、高校とすべて皆勤賞だった。学生時代はトライアスロン競技やハンドボールをやっていた。本人によれば大学受験に失敗したことが契機となり、自転車のプロロードレーサーとなるために単身でフランスに渡った。その当時から最大の目標はツール・ド・フランスだった。

身長170cmと小柄ながら、総合力の高さは海外選手に劣らない。得意とするのは一気のアタックで集団を抜け出し、最後まで少人数で逃げ切ってゴールスプリント勝負をものにすること。さらには大集団のゴール勝負でも世界のトップスプリンターと渡り合い、山岳ステージでもエースをアシストする仕事をこなす。

ツール・ド・フランス初出場は地中海に面するモナコで開幕した2009年だった。初日は距離の短い個人タイムトライアルだったこともあり、大会2日目に行われた第2ステージが新城にとっては最初の集団スタートのロードレースだった。舞台はモナコからフランスのブリニョールまでの187km。息をのむようなし烈な戦いは大集団によるゴールスプリントにもつれ込み、世界の頂点に君臨するスーパースプリンターがフルパワーでスパートした。

そのなかで小柄ながら日に焼けて精かんな顔立ちの日本選手が5位でゴールに飛び込んでいった。まだ24歳だった新城だ。それまでの日本勢の最高位は1996年の第13ステージで今中大介が記録した35位だから、最初の集団レースにして日本の歴史が塗り替えられたというわけだ。

その2日前、開幕を目前にして新城はこう言い切っていた。
「出場するのが目標じゃないです。ツール・ド・フランスに勝つために出るんじゃなかったら意味がない」

現在もその信念は継続する。「初参加の2009年はあっという間で、手も足も出なかった」と回想しているが、翌2010年も連続出場を決め、果敢に挑戦したが及ばなかった。2011年にまさかのレギュラー落ちをした新城が、心機一転を図って臨んだ2012年はまさに獅子奮迅の大活躍だった。チームエースのアシスト役として走りながらも第4ステージで敢闘賞。第18ステージではゴール手前までトップ集団で激しく戦った。

ツール・ド・フランスには特別の思いがあるという。それだけに2015年に出場を逃したときは痛恨の思いだった。4月に落車骨折してその回復が遅れていると監督に判断されたのである。しかしすぐに計画を修正して9月のブエルタ・ア・エスパーニャに初参戦。2015ツール・ド・フランスさいたまクリテリウムにも3年連続の出場を早い段階で表明して、リベンジを図る。

文:山口 和幸

山口和幸
スポーツジャーナリスト。日本国内におけるツール・ド・フランスを取材する第一人者。
1989年にツール・ド・フランス初取材、1997年から現在まで、全日程を取材している。
著書に講談社現代新書「ツール・ド・フランス」など。

 

一覧