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出場選手紹介 第3弾 「別府 史之」

15/09/18

ツール・ド・フランスに出場した日本選手はこれまで4人しかいない。1926、1927年にパリ在住の川室競が初出場。1996年にプロ選手としては今中大介が初出場。そして2009年に新城幸也とともに参戦し、日本勢として初めての完走を果たしたのが当時スキル・シマノに所属していた別府史之だ。

神奈川県茅ヶ崎市出身で、幼少のころから自転車に親しみ、高校卒業後に単身フランスへ。以来、ロードレースの本場欧州を拠点として活動し、常に日本のパイオニアとして国内自転車界にインパクトを与え続ける。

ツール・ド・フランス出場が決まったのは開幕の5日前だった。
「ようやくこの日がきた。5年間プロとして多くのレースに出場してきたけれど、ツール・ド・フランスは特別のもので夢の大舞台」
当時26歳。初参戦への意気込みは相当のものだったが、目標設定はあくまでも冷静だ。
「完走だけを目指すのはナンセンスだけれど、ツール・ド・フランスはパリ・シャンゼリゼまで行くというのも目標のひとつ。最後まで走り切りたいと思っているし、その自信もある。どれだけチャレンジできるか試しながら、チャンスがあれば逃げに乗ってステージ優勝をねらいたい」と話す。

第3ステージで区間8位の好成績を挙げると、後半戦になればなるほどパワフルな走りを見せつけた。過酷なアルプスやピレネーでも遅れることはなく、調子のよさをうかがわせた。第19ステージには自身最高の区間7位になった。 そしてツール・ド・フランス最終日、別府は大観衆で埋め尽くされたパリ・シャンゼリゼでアタックを決めた。
「このままじゃ、もうボクのツール・ド・フランスは終わってしまう。そんな想いを胸に必死にペダルを踏み続けた」

シャンゼリゼを8周回する特設サーキットの1周目でアタックした。他の6選手と第1集団を形成し、荒い石畳の道路を激走する。しかも終盤に後続集団が追撃をかけると、二段ロケットのように再びスパートして最後まで抵抗した3選手に残った。別府は8周回のうち7周半を逃げ続けた。

会場の実況担当ダニエル・マンジャスが残り1周の段階でこうアナウンスしている。
「今日のフミユキ・ベップは驚異的な走りだ。このシャンゼリゼの、そして今年の最終ステージでの敢闘賞はベップに決まった!」
これが日本選手初の敢闘賞獲得の瞬間だ。全選手がゴールしたあとのシャンゼリゼの石畳の上で、別府は赤いゼッケンをモチーフにした敢闘賞の楯を受け取った。そんな夢舞台を本人はしっかりとして言葉で締めくくっている。
「ついにシャンゼリゼにたどり着くことができた。長いようで短い3週間だった」


2008年の北京五輪、2012年のロンドン五輪代表。ツール・ド・フランスとともに二大大会と位置づけられるジロ・デ・イタリアには2011、2012、2014、2015年と出場し、すべて完走している。さらには1日開催のワンデーレースでは、100年以上の歴史を持つ伝統レースに起用されることが多く、与えられた仕事をこなしながらもすべて完走している。
9月27日には日本代表として世界選手権ロードに出場する。リオ五輪が翌年に迫った今回は上位入賞を果たして五輪枠獲得に向けて弾みをつけることも使命となる。ツール・ド・フランスさいたまクリテリウムには第1回から3年連続出場となり、2013年にはポイント賞と敢闘賞、2014年には敢闘賞を獲得している。今年のさいたま新都心でも持ち前のアグレッシブな走りを見せつけてくれるはずだ。

 文:山口 和幸

山口和幸
スポーツジャーナリスト。日本国内におけるツール・ド・フランスを取材する第一人者。
1989年にツール・ド・フランス初取材、1997年から現在まで、全日程を取材している。
著書に講談社現代新書「ツール・ド・フランス」など。

 

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