コラムCOLUMN

山口和幸のツール・ド・フランス取材レポート
#4「ピレネー山脈で繰り広げられる山岳ステージ」

15/07/21

1903年に始まったツール・ド・フランスが世界最高峰のサイクルロードレースになった要因は3つある。それは、世界のスポーツイベントのどれよりも早く商業化を導入したこと。バカンス時期に開催されること。そしてフランスの美しい大自然が舞台となることだ。

1910年の第8回大会、当時の大会ディレクターであるアンリ・デグランジュが、「自転車でピレネー山脈を越えることができたら、どんなに素晴らしいだろう。」ととんでもないことを提案した。だれもがそんなことは無理だと躊躇した。それというのも当時の自転車は変速機がなく、平たん路も上りも同じギアで走っていたからだ。選手はパンクに備えてタイヤとチューブを肩にたすき掛けして、水の入った容器をハンドルにくくりつけていた。100年前はそんな時代だった。


©PRESSPORTS

フランス南西部、スペインとの国境にそびえるピレネー山脈。その当時はクマやワシなどの凶暴な野生動物が生息しているとされ、選手が襲われて餌食にならないだろうかと本気で心配した。
「演じられたことのないようなドラマを大観衆は目撃できる。翌日には新聞の一面を飾り、手に汗を握るようなレース展開が全国に報じられる。これこそがツール・ド・フランスのやるべき道なのだ。」

こうしてその年に参加した136選手は、それまでの常識をはるかに超えた過酷な上り坂を体験することになる。ピレネーの4つの峠、ペイルスールド、アスパン、オービスク、そして標高2,115mのツールマレーがコースに加えられた。選手にとっては苦しさとの戦いで、主催者をののしる選手もいたほどだ。

翌日の新聞は「過酷な山岳は勝負を決する治安判事だ。」とかき立てた。これに呼応するように、上り坂で展開する真剣勝負を見ようとフランス中から大観衆が山岳区間に集まるようになり、歴史を刻んでいくつもの名勝負を目撃することになる。こうしてピレネーの峠越えは毎年の定番となり、それに加えてアルプスの山岳ステージも加わった。

2015年の大会は中盤にピレネーでの3連続区間をこなした。沿道に陣取って待つ観衆はスマホなどの最新機器をいじりながら思い思いに時間を過ごし、最新鋭のマシンに乗った選手たちが突き進んでいくのだが、基本的には100年前と変わらない人々の営みが続けられている。古い石造りの家があり、ヒツジ飼いがいて、カウベルの音が涼しげな風に乗って耳に届いてくる。


©PRESSPORTS

そして大自然の驚異は太古から変わらない。好天になれば灼熱で、十分な水分や食料がないと倒れてしまっても不思議ではない。天気が崩れれば真夏でもヒョウが降り、防寒具を持たないと遭難してしまうかもしれない。やはりこの場所はとんでもない秘境なのである。

そんな修羅場をかいくぐって栄冠を手にした男たちが10月にはさいたまにやってくる。ピレネーを終えて総合1位のマイヨジョーヌは英国のクリストファー・フルーム。日本が大好きで、来日すればきっとあの素晴らしい笑顔を振りまいてくれるはずだが、そんな過酷な山岳ステージを戦い抜いたスゴい選手であることを忘れてはならない。


©ASO/B.BADE

東京駅からJR上野東京ラインで30分もあれば現地に行けるツール・ド・フランスさいたまクリテリウム。
ピレネーの2,000m超の峠がその先にあったことを、どこかで感じてほしい。

文:山口 和幸

山口和幸
スポーツジャーナリスト。日本国内におけるツール・ド・フランスを取材する第一人者。
1989年にツール・ド・フランス初取材、1997年から現在まで、全日程を取材している。
著書に講談社現代新書「ツール・ド・フランス」など。



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